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かつて広く知られた「中島みかん」。マイファーマーでは2012年、中島みかんの復興に取り組みます。
今年の冬、中島から新生丸中ブランドのロゴが貼られた、最高のみかんをお届けします。

「中島みかん」の名前を聞いたことがある人は少ないと思います。 中島には、様々な環境変化で失われた幻のみかんブランドがありました。
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2011年夏、そんな中島に移住した二人の若者がいました。 高齢化が進む島の中で、彼らはみかん作りをはじめました。
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二人にみかん作りを教えてくれたのは、島にいる沢山の先輩みかん農家でした。
そんな先輩たちの言葉の節々から、中島のみかんに対するゆずれない気持ちを感じることになります。
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中島のみかんが一番。という自負がありながら、中島の名前で売れない現実。 理想と現実の間で、田中さんと大友さんは自分たちで売る方法を考え始めます。
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愛媛県松山市の沖合に中島という島があります。
瀬戸内特有の温暖寡雨な気候のため「この島で作れない柑橘はない」とまでいわれるほど柑橘栽培に適し、濃厚な味わいのみかんが育つことで知られます。
それらはかつて、丸中(マルナカ)ブランドの名で、高級みかんの代名詞として名を馳せました。

しかしその後、度重なる自然災害で甚大な被害を受け、90年代の末に行われたJAの統廃合によりブランドが消滅し、価格は急落。
さらに若者の島離れにより、生産者の高齢化が進み、島の活気は失われていきました。

2011年夏、そんな中島に東京から2人の若者が移住しました。
愛媛出身の田中佑樹さんと兵庫出身の大友良介さんです。10代で上京した2人は、10年余りの東京生活を経て、次第に都市部での生活に疑問を感じるようになりました。
その後、仲間とともに地域活性を標榜するNPOを結成。
集団移住の先鋒として、中島へ移り住みました。
中島の人々は2人を温かく迎え入れてくれました。
当初は、1年ほど農業の基礎を学んでから畑を借りる計画でしたが、移住してすぐに高齢の生産者から50アールの伊予柑の園地を借り受ける話が舞い込み、迷いながらも挑戦することに。現在、多くの生産者に囲まれながら、みかん作りを学んでいます。
「島の人みんなが師匠」。
田中さんはそう言い切ります。

「昔は、てぼ(収穫時に使うかごのこと)1杯のみかんで公務員の月給と同じくらいになりよったんよ」
「春は、海で迷っても、みかんの花の香りがするほうに行けば、島に戻れたんよ」
「山の上の上まで、全部みかん畑やったんやけん」

島の人が往時のことを話すとき、懐かしみの裏に悔しさがにじみます。
それはきっと、今も自分たちのみかんはどこよりも美味いという自信の表れ。
だからこそ、現在の状況が悔しくて仕方ないに違いない、田中さんはそう感じています。
となれば、若い自分たちの力で、ブランドを復興することが、自分たちを受け入れてくれた中島への自分たちなりの恩返しではないのか、と田中さんは考えています。

2人が考えるブランド復興の試みは、ブランドの立ち上げが最終目的ではありません。
中島から“最高のみかん”をお客さんに届けることこそが、生産者の望みだからです。
求めるものはお客さんの笑顔、そしてそれは生産者の笑顔でもあります。

現状では、販路を持たない生産者はJAに出荷するしか選択肢がなく、良い品ほどJAに引き取られてしまいます。しかし、それでは他の産地のものと一緒になって『愛媛みかん』として扱われてしまいます。
そこで、2人が考えたのがサポーター制度。サポーターを募り、事前に需要量を把握できれば、その量を確保することができるため、『中島みかん』のままお客さんの元に届けられるというわけです。

新しいブランドは、中島をみかん栽培の中心に返り咲かせたいという願いを込めて『真ん中』と命名。
ロゴは東京にいるNPOの仲間が用意してくれました。
今年の冬、瀬戸内海の真ん中から、最高の中島みかんがあなたの元に届きます。

111中島は、愛媛県松山港の沖合い約10kmに位置し、形成する忽那諸島(くつなしょとう)で最大の島です。
松山との交通は定期船による航路が唯一の手段となっており、近年ではトライアスロンの島で知られる風光明媚な島です。

中島のみかんの秘密は、「3つの太陽」にあります。
急斜面に直接降り注ぐ太陽の光。眼下に広がる瀬戸内海からの反射光。 園を支える石垣からの照り返し。
たっぷり光を浴びた中島のみかんは濃厚な甘さが特徴です。